ー2025年11月30日ー
はじめに
対談が始まっても事務所に電話が頻繁に掛かってくる。その対応は、まず吉原が受けることになるので対談中でも席を外さなければならい。そんな事情もあり、今回は私が口を挟むことは全くなかった。更には、対談時間そのものも短いものになった。
津田「忙しいのにゴメンね。じゃあ、名前からお願いします」
𠮷原「𠮷原清恵です。𠮷原の“よし”は“吉”ではなく旧字の“𠮷”になります。土口ですね」
津田「年齢は?」
𠮷原「44歳になります」
津田「えっ! もっと若いかと思った」
𠮷原「佐々木さんと一緒です」
津田「そうなん。私は30代かと思ってた」
𠮷原「実は38歳なんですけどね」(津田 𠮷原で爆笑)
津田「𠮷原さんは、ずっと事務職?」
𠮷原「そうではなくて、事務職をしたり保育士をしたり」
津田「そうそう。保育士さんなんよな。で、保育士さんは普通の公立の保育士さんだったの?」
𠮷原「そうですね。私立の保育園で勉強させてもらったりとか…… 。で、長野から引越して来て仕事を探し始めました。
上の子が小さい頃には聞かなかった“療育”とか、そういう発達系の言葉を耳することが下の子で多くなったんです。
それで、そういう情報をいっぱい持ってるお母さん、パイプをいっぱい持ってるお母さんと、全然なにも分からないお母さんがいて、じゃあ勉強してみたいなあ! ということから“療育”の所にお世話になりました。
ただ、園側が希望する時間帯と私が動ける時間帯の折り合いが付かなくなってきたんです。段々に。なので、ここから離れようという結論を出しました。でも、私は腰にヘルニアを持っていて、フルで働く現場は難しいと思ってましたが」
津田「ゴメンナサイ。そこは保育士さんで行ってたということ? “療育”に?」
𠮷原「そうなんです。保育士で行きながら勉強もさせてもらう形でやってたんです。
でも、保育士として働くとなると夕方5時までの求人が多くて、私が希望する時間と隔たりがありました。
となると、私は商業科を卒業してるんで事務職を探そうか? という結論に達して職安に向かったんです。
そこで“ぶどうの家”の求人と出会い、お世話になることとなりました」
津田「そうなんじゃあ。よく来てくれました。本当に来てくれて良かったわー。保育士さんだったら時間帯が難しいけど、事務だったらいろいろとあるだろう。ということだったんだ。でも今、結構長い時間で入ってくれてるよなあ?」
𠮷原「それは子供たちの環境も変わりましたからね。上の子も大きくなっていろいろ任せられるし、下の子の面倒見も良くしてくれますから」
津田「確かに! 状況はどんどん変わるからね。保育士資格を持ってるから子供たちに接する態度も違うなあ! とは思ってたんよ」
𠮷原「いえいえ。そんなことは全くないですよ」
津田「でも、場面場面、そんな光景と出会うことあるよ。で、思うんよ。『嗚呼! そういうことなんじゃ』ってね。素人の私たちとは違うよ」
𠮷原「どうなんですかね? でも、こちらにお世話になるとき、私は介護とか医療事務を勉強してませんでした。パソコンに触れることにもブランクがありましたから、どこまでやれるか不安もあったんです」
津田「そんなこと、物ともせんかったよな」
𠮷原「いやいやいや。そんなこと全くありません」
津田「ここに入って苦労はした? その辺りで」
𠮷原「小規模のときはそうでもなかったですが、看多機に変わってからは全てが未知の世界だったので。
指示書から始まり計画書っていうところも全てがですね」
津田「現場として大きな変化は無かったかもしれんけど、だけどバックヤードの事務とか管理者とかね。
ここ等は仕事量がかなり増えたことは間違いないよな」
𠮷原「本当に、山形さん・酒井さんがいてくれたので助かりました。正解が全く分からない状況でしたから」
津田「介護保険の仕組みそのものも全く分かってなかった?」
𠮷原「全くです。加算も分からないですし、全てがチンプンカンプンなところから入っているので」
津田「なんの話しですか? みたいな」
𠮷原「そうなんです。だから、言われたことだけをこなす日々でした。
ここで3年ほどお世話になってますが、やっと繋がるところが出てきたっていうのが本音です。
『あっ! だからこうなんだ』とか『だからこの指示書が必要なんだ』とか、そういうのが3年掛かってやっと繋がってきたようです。『酒井さんが言ってることはこうだったんだ』とかですね。
今までは酒井さんに教えてもらったことを、ただこなすだけでしたから」
津田「言われるがままに」
𠮷原「だから『ここが違うよ』って指摘されても、なぜここが違うのかも分かりませんでした」
津田「じゃあ、最近は仕組み的なことも理解し始めた?」
𠮷原「そうですね。まだまだですが、それなりに紐付いて来ました」
津田「だけど凄いよなあ! 何も知らないところから。今だったら、皆の方が吉原さんに聞くみたいな感じゃない? 『ここはどうだったっけ?』って」
𠮷原「そんなことないですよ。でも、今も山形さんには😭絵文字で『教えてください』とか『何時に帰ってきますか?』とか。まだまだ勉強中です」
津田「全く分からんところから、良くそこまで出来たなあ! と思う。だって医療事務とかも勉強してないんじゃろ? 普通に保育士さんやってて、商業科を出てるってんで事務職に応募してきたというだけだからね。介護保険の “か”の字も知らずで」
𠮷原「なにも分からない状況でしたけど、小規模のときは記録をここからそこへ移すだけでしたから。あとは、電話応対をやってくれれば、ということでした」
津田「そうそう。そんなだった」
𠮷原「ただ、難しい利用者さんからの電話応対は困りました。回答が有って無いような? 問い合わせにどう返答すれば良いのか?」
津田「今では、それはそれは的確に! 安心してます。事務所にいるから、なんとなく皆の会話も聞こえるし申し送りもあるしで、動きがザックリでも分かってるからスムーズな対応が出来るんじゃろうな。直接の介護の現場にはいないけど、バックヤードとして居てくれるのが凄く大きな存在」
𠮷原「ありがとうございます。皆さんに本当に良くしていただき、助けていただいて出来てることなんで」
津田「謙虚だなあ! 皆の助けにもなってるんよ。そこは持ちつ持たれつで」
𠮷原「頑張ります」
津田「ところで、𠮷原さんのお父さんが亡くなられた当時、介護保険は利用したの?」
𠮷原「そういうことが一切全く分からない知らない人で、父も母も事後報告だったんですよ、全て私に。病気になったことも、手術が必要なこととか全部が事後報告でした。病院からも、『こういう選択肢もありますよ』とかの提示をしてもらえなかったようです。看多機とか在宅で過ごせる環境を整えてる助けてくれる所が私の実家辺りに無かったのかもしれませんが、選択肢があることを母も私も知らなかったんです。無知でした。ここで私がお世話になって、最期を迎える利用者さんたちを見て、父は病院ではなく家で生活したかったんだろうなと後悔してます。家が本当に好きな父だったので」(𠮷原はハンカチで顔を覆いながら語ってくれた)
津田「いろいろ選択肢があるって知ってたらなぁ? 家族としてはなあ!」
𠮷原「訪問看護とか、私は全く知らなかったから」
@しばらく二人は沈黙
𠮷原「病状で『ここに転移したよ』って言われたら、その病状を調べることはしましたけど、家で生活するためにはどんな選択肢が可能か? については全く無知であり未知で、調べることもしませんでした」
津田「調べようとも思えないよな」
𠮷原「介護保険が使えるとかサービスがどうとか? 全く知らなかったから。だから病院で、モルヒネだったと記憶してますが? 使いはじめてナースコールを父が鳴らしたときに看護師さんが『苦しそうに見えますか?』と私に問い掛けたんです。もう良く分からなくなってた父ですが、父は『苦しいから押した』と。つまり、そんな投げ掛けをしてきた看護師さんにショックを覚え、こんな看護師さんに対応して欲しくないと思ったりしました。『自宅だったらこんな…………』」(涙声になり最後は聞き取れず)
@少しの間
𠮷原「Nさんじゃないですが、最後まで家で生活したいという人にとっては看護小規模多機能という存在は強い味方ですよ。病院にいれば安心は安心ですけど……」
津田「家の持つ力とか、家の良さはカバーできないものがあるよな。いくら看護師さんとかが24時間見てくれてても。だから、『小規模があったら家にいられるよ』っていうことを、いろんな人にもっと届ける義務が私たちにはあるね」
𠮷原「難しい!」
津田「理解してもらうのは凄く難しいんだけど、でもホント、Nさんみたいに家にいられるよ、ってね。
前回(16回)で井上さんも言ってたけど、Kさんみたいに最期までお酒飲んでパチンコして、素敵なことをやりながら家で生活できるとか、そういうことがちゃんと出来るということを、もっともっと世間に知らせて行かんといけんな。
でも、それが出来るのはここのスタッフの人たちが、凄い高いレベルの介護なり看護をやってるから。一人ひとりの人が、どう生きたいのか? 生きる延長には死があるけど、どんな風にその日を迎えたいんかあなあ? とかね。
そういう事情も良く理解してるから。更には、元気な頃から関わっているから、微細なあんなこんなまで気配りできるようになるんよな。全国に広めたいよな」
𠮷原「このあいだ、ある団体の連絡会に参加させてもらったんです。現場を知らない事務員として。
で、そこの連絡会の会長さんが『やはり看多機は必要』と言われてました。
私の家族みたいに、父は家が好き。できれば最期までいたかったよねって思ってる人はいっぱいいるけれど、身近にサービスが無いが故にそれが叶わなかった。
そういう人もいっぱいいるだろうと想像します。ただ、理想は理想で現実を考えると難しいところも多々あるんでしょうね」
津田「難しいところはあるね。事業所毎の考え方とか、取り組みの違いとか、そういうのがあるにはあるけどな。
でも、“ぶどうの家”は真っ当な小規模をやっていきたいなと思ってるから。
その分、スタッフに負荷も掛かってしまうんだけど、対価も報われると信じてます。
地域という大きな枠で捉えた中で。いざとなったときにも」
今回の対談を聞きながら、介護保険が始まった2000年前後の頃を思い出した。
当時、私は在宅介護支援センターと呼ばれる事業所を中心に取材しており、てんやわんやの事業所ばかりで、介護保険の仕組み・パソコンの触れ方などに頭を悩ます職員方々ばかり。
「手書きの方がええよなあ!」という声もアチコチで聞いた。特に年配の方は苦労されたはず。そんな記憶が蘇った今回の対談でありました。とはいえ、𠮷原さんの悪戦苦闘に敬礼!